院生生活12.6
12月6日
朝6時に、これで聞き納めになる同居人の目覚ましの音を聞いた。何度爆音の目覚ましが消されるのを聞いただろうかと思って私は少し寂しくなった。進捗に病める時も、締め切りが健やかな時も、いつだって同居人は健やかに眠っていたし、目覚ましは永遠に同居人を起こそうと頑張っていた。私も時たま頑張った。「5分後に起こして、絶対起きるから」というのを信じたのは初回だけで、2回目からは心の底からの疑惑の視線を向けて「本当に?」「ほんと!」「……本当か??」「起きるよ!」というやり取りを挟んだ。結局同居人が5分で起きることはなかった。「ごめん(私)ちゃん、あと5分……」というセリフは何度も聞いた。同居人は本当によく寝るし、私は本当に全く寝ない。対照的なふたり。
早朝から掃除機の轟音をたてて布団を圧縮しながら、私はこの引っ越しRTAを思い返していた。そもそも昨日の時点で、私の荷物は何一つ片付いていなかった。土曜の朝、体調不良でぶっ倒れていた同居人の代わりに雨のなかレンタカーをとりに行き、受付けの中国人にあやうく軽トラを出されそうになりながら戻って、元同居人の置いていったゴミをクリーンセンターまで捨てに行った。そのあと帰宅して、やっと作業を始めたのだ。寒すぎて、スチールラックを分解する手が痛かった。そのあと慌ててバイトへと出かけ、フルタイムで働いたあと実家に戻って、実家の車を転がしてここまで戻ってきた。夜の圏央道を運転したのは初めてだった。上だけが少し欠けた、明るくて大きな月が出ていた。オリオン座もよく見えた。あまりにも月が綺麗だったので、昔の人があれを異界への穴だと思ったのも納得だと思った。帰ってきて、同居人と一緒に最後の片づけ作業をした。いや、同居人は最後の片づけだったが、私はその時はじめてまともに片づけをはじめたというのが正しい。ちなみに同居人は金曜あたりからゆうパックを送っていたし、昨夜最後のゆうパックを送り忘れて絶望していた。曰く、集荷があることも忘れていれば、スマホすら家に忘れて出かけたらしく、郵便局から鬼電が来ていたという。そういうわけで、同居人の最後のゆうパックは私が今日最後に郵便局まで運ぶことになっていた。一緒にゆっくり飲むつもりだった焼き芋のお酒を、わずかばかり味見しながら、私たちは笑った。「最後の最後まで限界だけど、正直めちゃくちゃ我々らしくて嫌いじゃない」私が言うと、同居人は同意した。同居人の、「だからよ」ももう聞くことはほとんどないのだろうなと思った。つくば市のゴミ袋は、いつからだか分からないが少し薄くなっていた。袋を開けようとして2枚のゴミ袋を引き裂いた私は、照れ笑いした。「私怪力なんだよね」「一般的には男性の力でも破けないように作られてるはずね」同居人の何気ない言葉が私を傷つけた。怪力なので私は同居人を困らせていた固く閉まったピクルスの瓶を素手で開けた。15個目のゴミ袋を出してきた同居人が、ゴミ集積場の悲鳴を代弁した。「もう食べられないよぉ」私は爆笑した。「すまんがまだある」
1時半ごろまで作業をして、2時前には寝た。和室は思い出でいっぱい。部屋の真ん中のコタツ、隣のローテーブル、入居したときから割れていた窓、午前には必ず私に直射日光があたり、夕暮れ時にはカーテンを閉め忘れて「閉幕でございます」などと言いながら慌ててカーテンを閉めたこと。換気で窓をあけたら、暴れるカーテンが花瓶を倒したこと。ずっと立てかけてあった姿見は、出かける前に身だしなみを整える同居人がよく使っていたし、同居人の定位置の後ろの押し入れには、私のハンガーラックがあって、同居人のカメラオンの授業のときに私が乱入したこともあった。春先には、寒いからエアコンをつけて一緒に寝ようとしたのに、肝心のエアコンをつけ忘れた。「あのさ」おやすみの5分後、暗闇で隣に寝転んだ同居人の発話に応えて私は「うん、エアコンついてないよね」と返して、二人で爆笑した。ただただ同じ部屋で一緒に寝た人たちになるところだった。私も同居人も、寝るとき以外ほぼここで過ごしていたから、この畳の匂いとか、明るい窓とか、コタツの稼働する小さな音とか、そういうものが私たちにとっての同居生活の日常だった。
ともかく、そういうわけで、どうにか荷物を車に詰め込んで、家具が軽トラで回収されて、9時半には引き払える状況になった私たちは、ミニストップに最後の晩餐を買いに出かけた。同居人はずっとフォンダンショコラが気になっていたし、私はプリンパフェが気になっていたから、それを買った。支払いの2分後、レジで品物とレシートを引き換えるとき、同居人はポケットを探って言った。「レシート捨てたわ」同居人のこういうお茶目なところが私は大好き。「ミニストップが最寄りなのはレアよ」同居人の地元にはミニストップがない。私も実家の付近にはないから、うなずいた。ミニストップから我らが根城までの歩きおさめ。素晴らしくさわやかな青の外壁は、我々が実家に戻っている間に塗りなおされたもの。階段をのぼりながら、滑り止めがなくなっている2段の話をした。「これ怖いよね」「いや恐怖だった」。たぶん断熱材の入っていないこの建物の、陽の当たる和室で、スイーツを食べた。コタツも座椅子もないが、私たちは定位置に腰をおろした。本当に楽しい同居だった。「最後の晩餐よ」同居人が言うので、「これ途中で立会いの人来たらウケるね」なんて返した。「立ち合いの人のも買ってくればよかったね」「あ、どうも。お兄さんも食べます?ってね」そんなことを言っていると、インターホンが鳴った。ファミマの入店音。「やばい、来た」。ファミマの入店音にもずいぶんと慣れてしまった。「うちかファミマに住んでるかでしかない経験よ」同居人がそう言っていたのも懐かしい。同居人はまだフォンダンショコラを食べていたが、私は食べ終えていたのでゴミを捨てて立ち合い人を受け入れた。そうして私たちは住所を失った。
私は車で、同居人は(もう乗せる場所がなかったので)バスで郵便局に向かった。ゆうパックを出して、コメダ珈琲へ。なんてことない話をして、同居人を駅まで車で送った。名残惜しくて別れがたかったが、同居人には電車と飛行機の時間があった。「一路平安」こうやってナチュラルに中国語を使うことももうない。「謝謝」同居人の中国語を聞いて、私たちは別れた。
帰りの車は日差しが暖かくて、こんな季節なのに少し冷房をかけた。高速道路に乗るまでの道は若干覚えていなかったので集中して運転したが、高速道路に乗って、右手の筑波山が少しずつ霞んでいくのを横目で見たとき、私は猛烈に寂しくなった。本当にいい同居だった。
昨日の夜、片付け作業をしながら同居人が「この同居を経て、結婚したいという気持ちが分かった」と言っていたのを思い出した。「この同居が楽しかったから、好きな人と暮らすのって楽しいんだなって思って」確かにな、と思った。色々とあった結果、正味たったの二か月の同居だったけれど、たくさんの思い出が生まれた。愉快なことだらけで、よく爆笑していたのを覚えている。なにより、同居人とは本当に人生のスタンスが合っていて、話していてストレスがなかった。お互いの得意分野が全く違っていて、それをお互いに尊敬していた。お互いに自分も互いのことも天才だと思っていたし、生活の得意分野も違ったから、掃除やゴミ出しなんかがストレスなく分担できたのもよかったと思う。今は鮮明に覚えている、愉快だったり殺意にまみれていたりした事件を、ずっと忘れたくないなと思って、帰宅したらリストアップしようと思った。それでもきっといつかは忘れてしまうものだけど、たとえ思い出自体が思い出せなくなっても、そういう思い出があったという喜びは、永遠に消えないものだと思う。ありがとう、同居人。私は同居人のことが本当に大好きだ。
院生生活10.18
2020年10月18日 日曜
特殊な悪夢を見た。サイゼリヤに開店と共に押しかけるも、メニューが10時間決められず、閉店する夢だった。天気が良かったので、冬物の上着を洗濯した。外に干した瞬間に曇った。同居人はまだ眠っていたが、私は家じゅうの窓という窓を全開にしてまわった。昼前だったので。
私がコタツでPCを開いていると、同居人が起きてきてコタツに入ってきた。「おはよ」コタツがあまりにも暑かったので、私たちはコタツの電源を落とした。「わたしスペシャル」同居人はうどんを食べている。うどんと生卵、ツナとネギとめんつゆを少々。おいしそうだったので今度真似しようと思った。「おやすみ」同居人はそのまま再び入眠した。
16時になって同居人が再び起きてきた。私は相変わらずコタツをつけたりけしたりしながらPCと向かい合っていた。「進んだ?」「ぜんぜん」「何見てるの?」「デック」私の進捗はツイートデックが吸い取っていく。「うどん食なんだよね」同居人は目の前でうどんを食べている。今日私が観測した同居人は、寝ているかうどんを食べているかの二択だ。私もおなかがすいたので、ラーメンをゆでた。同居人が昨晩(明け方)何があったのか話してくれるのを聞きながら、卵をゆでてもやしを炒め、麺をお湯に投入する。「何作ってるの?」「ラーメン」「あのね」同居人は畳に転がったまま言った。「そういえばラーメンを鍋に入れるのいま見てたわ」外で中国人が大声でしゃべっている。私と同居人は顔を見合わせた。「中国人だね」なつかしくなったのである。そのあと通り過ぎて行った日本人がやや物騒なことを口にしていたので、私たちは立ち上がった。一瞬耳を澄ませる。「結構ヤバさを感じてる」「うん」私はそのままカーテンを閉めた。
寒くなってきたので、私は自室の窓を閉めにいった。ベランダに出たところで再び物騒な話声が聞こえたので、下をのぞき込んでいると、同居人がはだしでやってきた。「見える?」「見えない」顔をあげた同居人が西の空を指さした。「綺麗だね」同居人がベランダから室内に足を戻したので、私はベランダスリッパを片方脱いで同居人の足元に放り投げた。同居人はそれを履いてバランスを取りながら私の隣にやってきた。二人で並んで、しばらく無言ですさまじく綺麗な夕焼けを眺めていた。
私は修士論文のレジュメがあったし、同居人は虚無から生まれた、あるかどうかも怪しい面談のレジュメを作っていた。私が進捗で絶望していると、同居人が話を聞いてくれた。同居人の何気ない質問に答えられず、私は虚空を見つめて沈黙していた。「絶望してる」私が言うと、同居人が半笑いで頷いた。「結構絶望してる表情してた」同居人が部屋を出ていったので、私が虚空を見つめて絶望を深めていると、同居人はホワイトボードをもって戻ってきて、私の隣に座った。「まずさ」同居人はそのままホワイトボードに論点を書き出していく。私は死人のような顔で頷いた。ものの10分ほどで、論の展開が完成した。素晴らしい手際の心肺蘇生である。私が8か月かけてゆっくり死んでいたのを、同居人はものの10分で蘇生させたわけである。私はむせび泣いて感謝した。「修論のクレジットに名前書くね」「謝辞のとこに入れといて」同居人は自分の作業に戻っていった。
しばらくして急に同居人が立ち上がったので、私が無言で見つめていると、同居人は根負けしてこちらを向いた。「一日中動かないと嫌だから散歩行ってくるね」「うん」私はここ5日ぐらい動いていない。たぶん同居人だったら石になっていただろうが、私はその気になれば3年ほど石の上に座っていられるので、同居人を見送った。
そのうち同居人は帰ってきて、そのまま友人と通話をはじめた。私の脳内ではすでにすさまじい進捗が(同居人によって)生まれていたが、それを文章に出力するとなると話は別である。通話を終えて戻ってきた同居人に、私は報告した。「これはね、さもたくさんの文章のなかから要点をまとめましたという顔をしているけど、まあそう装っているだけで、今書いている文章以外は存在してない、要点レジュメ」「うん」「でも要点だからね」同居人はコタツに入って言った。「魔法の言葉。時間の都合で割愛します」私たちは爆笑した。「このコタツさ、もう一段階弱いモード欲しいよね。暑いわ」私がぼやくと、同居人が頷いた。「普通さ、あるよね。なんか調整のツマミみたいなやつ」「え?」私はコタツに手を突っ込んだ。「あるよ?」「いやほら、外にさ」私は同居人の言っていることをほとんど聞いていなかった。もしやこのツマミは最弱になっているつもりで実は最強なのではないか?という恐怖で震えていたからだ。「あのさ」私はこたつ布団のなかに頭を突っ込んだ。「このツマミさ、今最弱だよね?もしかして最強だったりしない?」「ああ……」「ちょっと見てみるね」当然ながらコタツ布団の中は暗くて何も見えなかったので、私は頭を出して、コタツ布団をめくった。「どう?」「あのね」「うん」私は苦労してツマミの強弱の文字を読んだ。弓偏が同じなので5度見して確認した。「最強だった」「草」「下げるね」ツマミを回してしばらく待つと、コタツが適温になった。「あのさ」同居人が言った。「あれで最弱だったらさ、このコタツのポテンシャルが怖かったよね」私は爆笑して座椅子の上でひっくり返った。
日付が変わった。私は相変わらずPCをたたいたりスマホを見たりしつつじわじわと進捗を生んでいた。「おなかすいた」同居人が転がってスマホを見ながら言った30分後、私も言った。「おなかすいた」進捗はおおむね60%ぐらいだった。私は気が狂っていたので、虚空を見つめて爆笑していた。「ラーメンでも食べに行くか~~!」「いいよ」「えっ」同居人が真面目に答えをかえしたので、私は急に真顔になって同居人の顔を見た。「正気?」このタイミングで私にだけは訊かれたくない質問ナンバーワンだっただろうが、同居人はスマホを見ながらうなずいた。「この時間にラーメン屋ってやってるの?」私が聞くと、同居人は近所のラーメン店の名前を答えた。「今調べた、やってる」マジで行く気である。「あのさ、ごめん、でも私このレジュメ結構かなりまだぜんぜん終わらないよ」「知ってる」同居人は私のPCのスクリーンの上から私を見た。「あのね、忘れてると思うけど私もレジュメを作らなきゃいけない」。私は沈黙した。同居人はPCをコタツの上からどけていたので、もう作業は終わったものだと思っていたのだ。同居人がPCを机に戻す。私たちは無言で作業を再開した。作業をしなければならないのに、無限にスマホを見ている同居人のことが私は大好き。
午前3時になって、とうとう作業が終わった。「ほんとは終わってないような気もするけど、まあこれは抜粋なのでもうここで終わり。終わったんじゃない、終わりにする」私が言うと、下半身をコタツに吸い込まれたまま同居人は頷いた。「先生1に送った」「よかった」「先生2と3に今送るべき?午前3時だけど」私が聞くと、同居人は私の顔を見た。「あのね、間違いなく、」私はエスパーなので同居人が言いたいことを察知した。「寝てるよね」「うん」同居人は頷いて、さらにつづけた。「間違いなく寝てるし、あの先生たちは日頃からすごい量のメールを受け取ってるので、間違いなく、メールの着信音を出して寝たりはしてない」想像して私は面白くなった。「だから今送って大丈夫。さっさと送って楽になったほうがいいよ」同居人が言うので、私は残りの先生たちにもメールを送った。それを報告すると、同居人はコタツから脱出して言った。「よかった」。
「今外何度?」私が着替えながら聞くと、同居人はスマホに相談した。「あのね、9度だって」「寒くて草」私は手持ちの服をすべて着てマフラーを巻いた。「私はダウンの上にダウンを着てる」同居人は寒がりだ。深夜のまちを歩いてラーメンを食べにいった。午前3時だというのにラーメン屋は混んでいた。混んでいるそのなかに見知った顔がある可能性すらほとんどないことを思い出して、私たちは院生生活を思った。帰り道を歩きながら、今日という日をかなり長いこと鮮明に覚えているだろうなと思った。空気が澄んでいるのか、街灯がそれなりにあるにも関わらず、星がよく見えた。冬の大三角。そんな季節になったのだなと思った。
北京留学9.13
9月13日、中秋節。
もう北京は朝晩が随分と寒い。先週までは暑くてたまらなかったのに、急に冷え込んだなと思う。相変わらず筑波山の見えやしない陸橋を渡って、バス停に急ぐ。こっちはバスがとても便利で、日本ではグーグルマップに値するものに、次のバスがいまどこにいて何分で来るのかがリアルタイムで掲示されている。あと4駅12分かぁ、なんて思いながら大急ぎで部屋を出て、(部屋からバス停までが近くはないので)ちょっと小走りで向かったら、ちょうどバスと同時にバス停に着いた。こっちのバスは容赦なく人間を置いていくので、大慌てで両腕を振り回しながら必死の形相で向かっていった。乗れた。
後方窓際の席が好きだ。窓が全開で、先週浴びていた熱風はどこへやら凍えそうな風が直撃した。あまりに寒いので席を移動した。北京はこの一週間天気がぐずついていて、今日はちょうど晴れに変わる日だ。そういえば、北京の雨を見るのは初めてかもしれない。何度も北京には来ているが、夏の北京はとかく晴れる。記憶の無いぐらいの昔は夏以外も来ていたらしいので、見たことがあるのかないのかで言えば初めてではないかもしれない。日本の台風は大変そうだったな、なんて思いながら、バスを乗り継ぐ。
早口の中国人との集合場所は、稲香村という北京の老舗菓子屋の前で、ここの月餅がとてつもなく有名なものだから、朝9時半だというのに店のなかはすさまじい人だかり。思わず笑ってしまった。当日朝に買うな、前もって用意しておけ愛すべき中国人たちよ。
店の前につながれている誰かの犬と見つめあっていると、早口で呼ばれた。「朝ごはん食べた?飢えてるんじゃないかと思ったからココアビスケット持ってきたよ」私は早口で答えた。「そんなにお腹すいてない」「いいね」早口の中国人は、速足に地下鉄に向かう。荷物検査、絶対ろくに見てないだろと思いながら荷物を回収して、乗車。北京の地下鉄はそれなりに便利なのだが、ひとつだけ文句を言うのならば、ラインの名前が1からウン十ウン号という番号でつけられている点。山手線とか、東部アーバンパークラインとか(他意はない)、ああいう分かりやすい(他意はない)名前がどれほど分かりやすかったかを思った。親に向かってなんだその数字は!(親ではない)覚えられない!(お前の責任)
そう、北京で増えたものといえば、二階建てバス。乗って思ったのは、一階天井ひっく。あまりに低いので天井に手をついて体を支えた。「あんたが天井支えてるみたいだね」早口で言って中国人が笑った。
今日訪ねたのは、私の母の姉の夫の母(以降ナイナイと称す)の家だ。中秋節には、家族で集まってご飯を食べる習慣がある。そこに呼ばれたというわけだ。ナイナイというのは、女片に乃という漢字を二つつなげて作る呼称で、これは「父方の祖母」を指す。ナイナイの住んでいる団地は、なんというか、非常に、そう、地理専攻の友人ならエロスを感じてくれそうな建物だ。人見知りなので戦々恐々としながら対面。出迎えてくれたのは母の姉の夫の妹(ググ)。ついで母の姉の夫の兄(ダァダァダ)。母の姉の夫(ダダ)ともここで合流。しばらくして、ナイナイとググの娘(サンジェジェ)が帰宅。私は一応「アルジエ」ということになるが、実際のアルジエは母の姉の娘つまりいとこにあたるので、これは完全に便宜上の呼び名。最後にダァダァダの妻(ダァジエ)、その娘(イージエジエ)と夫(グァグァ)、その息子がそろう。息子はちょうど3~4歳といったところか、非常になんというか活きの良い男児だった。恐慌状態に陥ったかと思えば夕日に向かって走り始める。
こちらでは、厨房の世話は男性がすることも多い。今日はダァダァダとダダが調理担当で、その他の人員は円座になって運ばれてくる料理を随時食べていくというスタイル。時々大皿をテーブルの端から端で取り換えて、うまく全体に料理が回るようにしていく。最後の料理がそろって、ダァダァダとダダが座ると、6割がた料理の食べつくされた段階ではじめて、「中秋節快楽!」の挨拶とともに乾杯することになる。最後に申し訳のように月餅が机に乗った時点で、すでに円卓からは脱落者が出ていた。件の息子はまだ胃袋が小さいので、次点で最年少なのが私になる。ジエジエたちはみな三十路を超えているので、自然とダァダァダとダダの関心は私に向き、結論から言うと、胃袋がはちきれそうになった。「食べな」「これ食べた?」「もう一個ね」「食べな」。断っておくが、「もう一個ね」の「ね」は確認ではなく断定の用法だ。プーアル茶でメロンを流し込む。息子がおもちゃの車をなくして大騒ぎしている。やがてダァダァダ一家がみんなで帰って、それから私たちもおいとました。
日本語チョトワカル中国人と早口の中国人と、テンタン公園に行った。私がしゃがみこんで水たまりの写真をとっていると、早口の中国人が「地面なんか見て」というので写真を見せた。三人とも昼食がのどまで残っていたので、帰りにおかゆのお店へ行った。それなりに食べてしまった。当然胃が痛くなって、バス停まで死にそうな思いで歩いた。帰宅して、大声の中国人とテレビ電話をした。正直言ってしゃべることもないので、無言で顔を眺める時間を無駄に過ごした。
住んでいる寮が、中秋節祝いなのだろう、いつもはしないのに大仰にライトアップされていて、私は輝く建物を窓から眺めた。部屋が北向きなので、月見を忘れた私は中秋の名月を見られなかった。代わりに輝く建物を眺めながら、それでもやっぱり、お月見の節句なのだからむしろ消灯すべきなのでは?なんて思ったりもした。
憎き蚊の侵入を許した。5か所刺された。死ぬほど腫れていて死ぬほどかゆい。蚊取り線香はない。もうダメだ。世界の終わり。
北京留学9.5
のんびり出かける支度をして、食堂のしまる直前に行ったらさめたご飯が少ししか残っていなかった。中国はそういうところだった、忘れてたけど。幸いエリンギの私の好みの味付けのやつが残っていたので、それと美味しいのにさめてる饅頭を食べた。胡椒がききすぎなぐらいで私には嬉しい。食堂の二階に何があるのか知らなかったので行ってみた。美食城だ。こんどいこう。
教室棟で、最終的なクラス分けを見た。帰っていいのかよくないのか、あまり把握できずにいろいろな人に聞いて回る。ハンガリー人とは英語で、日本人とは日本語で。疲れてソファーに座った。偶然同じ班の日本人と出会えた。ドイツ人と中国語で意思疎通ができた。
本科授業の登録に行き、アメリカ人と部屋を探す。民俗の授業を履修したいなと思っている。帰って、ご飯をたべにいく。一つむこうの列に置いてあった飲み物がほしくて手を伸ばしていると、「何が欲しいの?」と親切な男の人が言った。「これ!」私がなおも必死に手を伸ばしながら答えると、「これなら君の目の前にもあるよ」と彼が笑った。目が節穴か?苦笑いしながら買った。帰って、だらだらとマイクラを。とてつもないラグバグで、通話していた友人と笑い転げながらプレイしていた。死んでいるはずのアバターが一生画面で飛び跳ねていた。
北京留学9.4
水曜日。とても空気が悪い。知り合いを追い越して足早に教室棟に向かった。テキストのマッチングがあって、自己評価をもとに割り振られた教室で担当の先生と面接をする。「あなたには簡単すぎるわね」これ音読してみて、と言われて課文を音読すると、ご婦人はそう言って、メモに何か書きこんだ。「この部屋にはこれ以上難しいテキストは置いてないから、114でもう一回マッチングしてらっしゃい」、そういうわけで、大行列の隙間を縫ってテキストを確定しにいった。自己評価が低すぎたのか、いずれにせよリーディングもスピーキングも3クラス昇進となった。「108元ね」という女の子の言葉すら聞き取れないのに?
図書館に行って、学生証にチャージして、書類をとりにいって、友達とばったり会ったので、一緒に昼食を食べて、一度部屋に戻った。午後は中国の歴史の簡単なレクチャー。「中国人民は、わが国には5000年の歴史があるとよく言いますが、今日は王先生にたったの4000年ぶんだけ紹介してもらいましょう」という言葉とともに始まったレクチャー、日本人学生が一瞬で寝始めて非常に恥ずかしかった。
予定の二転三転する先生との予定をこなす。結局学外に呼び出され、右往左往した。留学生に不慣れな場所を歩かせるなんてと見当違いなことを考えた。そうだ、そういえば学内でとうとう中国人に道を聞かれて答えることができたのだった。夕食の食堂が開く前にぼんやり座っていたところで聞かれたときは答えられなかったけども。
食堂では情けない顔で「辛くないやつあります?」と聞いた。意外とあるもんだ。親切なおばちゃんにお会計してもらって、ご飯を食べながら、なんとなく「優しい」ってのは比較対象がいるんだなぁと思っていた。世の中のことすべてに言えるだろうけども。中国人がよく飲んでいる、緑豆スムージーを飲んだ。中国のものにしては珍しく、よく冷えていて美味しかった。ここの食堂は、ひとつケチをつけるなら饅頭があまり美味しくない。饅頭が美味しいのは、今のところでは今日の昼に行ったところ。でもあの饅頭はすこしやわらかすぎる。それ以外だと、日本語チョトデキル中国人の社員食堂の饅頭はかなり美味しい。それから、和平街のスーパーの饅頭も。饅頭レビューでもしようかなぁ。
北京留学9.2
9月2日
午前で色々しようと思っていたのに、結局したのは先生とインターン先にメールを打つことだけ。それも人に付き合ってもらって。
教室棟に向かって、クラス分けを確認し、新入生ミーティングに参加した。交換留学生のための説明会だ。英語でジョークを交えて説明されていくが、ジョークがわかるのは参加者の半数といったところ。英語母語の集団が当然100%理解してドッと笑うのを横目に、英語も中国語も中途半端な自分をながめた。どうにか日本人のツテを得て、それから耳のチョト遠い中国人の家に向かう。ヨーヨーチーではなくてヨーヨージョーに乗って、テンフォンリーの稲香村に買い出しに向かった。お気に入りのビスケットを買って、店を出たところで、耳のとてつもなく遠い中国人とばったり出くわす。追加のおやつを買おうとしたら支払いを強引に横取りされて、有難く買ってもらった。地下でアイスクリームを買い、スイカを買い、バス停で大声の中国人と耳のチョト遠い中国人に電話して、帰る。「あんたそのアイス溶けるよ」突然バスの中で知らない中国人が話しかけてきた。そのあとにも何かつづけたが、聞き取れなくてそう言うと、「日本からの留学生は最近減ってるのにね、よく来たね」と真顔で褒められた。「でもアイスは溶けるよ」
アイスが溶けるのが心配なご婦人とさようならして、帰るなり冷凍庫につっこんだ。耳のとてつもなく遠い中国人が西瓜を切ってくれて、それを食べると夕食。初めてまともなカニというのをいただいてしまった。それと名前の分からない巻貝。美味しかった。途中で早口の中国人が合流してきて、私が棗のヨーグルトを飲んでいるところで大声の中国人とテレビ電話をつないだ。「見せないで」私の飲んでいるヨーグルトを見て、大声の中国人が言った。私も大声の中国人もこの棗のヨーグルトが大好きだ。日本にはないので、大声の中国人はどうあがいても飲めない。だから見せないでというのだ。私はニチャァと笑って画面の外に出た。
7時を過ぎたところで宿舎に戻った。夜、大都会北京の薄明るい西の空で、それは見事な三日月が浮いていた。バスの窓から、ビルの屋上を散歩する月を見ていた。伊達政宗の前立てみたいだった。
北京留学9.1
9月1日
日曜日。何もしないで過ごした一日だった。外に出ることすらしなかった。ぼんやりと流れていくTLを見て、ぼんやりと外を眺めて、かといってとりたてて孤独だと思うこともなく、寂しさがあるわけでもなく、強いて言うのならばうすぼんやりとした「やることやらなきゃ……」という思いだけがあった。人と話すことさえ億劫だ。疲れているんだと思う。食べ物を調達するのも面倒で、中国人たちが持たせてくれたバナナと、桃と、梨を食べた。梨はいつも私にひとつの記憶を思い起こさせる。
中国のこの季節の梨は、形状が洋ナシに近く、味は和梨に近い。1年前、私が北京から日本に帰る日も、同じく日本語チョドダケシャベル中国人がくれた梨を食べていた。食べきれなくて、一つバッグに入れた。空港で食べようと思ったのだ。結局、私はバッグの中の梨を完全に忘れ去った。思い出したのは、日本の自宅に着いて、バッグの中身を取り出した時だった。本来、生鮮食品を海外から持ち込むことは禁じられている。空港ではチェックが入るのだ。ところが、どういうわけか私の手持ちバッグのなかの梨はそれをすり抜けてしまった。空港職員が気づかなかったのか、それとも「まあコイツこれ食べるつもりだろ、ええわ」ということだったのか、または実は梨一個ぐらいなら問題なかったのか、それは分からないが、そもかくそういう思い出。特段感情的になるほどの記憶でもないが、私は梨を食べながらそれを思い出していた。