ポニテと洗濯

航海日誌

北京留学9.2

9月2日

 

 午前で色々しようと思っていたのに、結局したのは先生とインターン先にメールを打つことだけ。それも人に付き合ってもらって。

 教室棟に向かって、クラス分けを確認し、新入生ミーティングに参加した。交換留学生のための説明会だ。英語でジョークを交えて説明されていくが、ジョークがわかるのは参加者の半数といったところ。英語母語の集団が当然100%理解してドッと笑うのを横目に、英語も中国語も中途半端な自分をながめた。どうにか日本人のツテを得て、それから耳のチョト遠い中国人の家に向かう。ヨーヨーチーではなくてヨーヨージョーに乗って、テンフォンリーの稲香村に買い出しに向かった。お気に入りのビスケットを買って、店を出たところで、耳のとてつもなく遠い中国人とばったり出くわす。追加のおやつを買おうとしたら支払いを強引に横取りされて、有難く買ってもらった。地下でアイスクリームを買い、スイカを買い、バス停で大声の中国人と耳のチョト遠い中国人に電話して、帰る。「あんたそのアイス溶けるよ」突然バスの中で知らない中国人が話しかけてきた。そのあとにも何かつづけたが、聞き取れなくてそう言うと、「日本からの留学生は最近減ってるのにね、よく来たね」と真顔で褒められた。「でもアイスは溶けるよ」

 アイスが溶けるのが心配なご婦人とさようならして、帰るなり冷凍庫につっこんだ。耳のとてつもなく遠い中国人が西瓜を切ってくれて、それを食べると夕食。初めてまともなカニというのをいただいてしまった。それと名前の分からない巻貝。美味しかった。途中で早口の中国人が合流してきて、私が棗のヨーグルトを飲んでいるところで大声の中国人とテレビ電話をつないだ。「見せないで」私の飲んでいるヨーグルトを見て、大声の中国人が言った。私も大声の中国人もこの棗のヨーグルトが大好きだ。日本にはないので、大声の中国人はどうあがいても飲めない。だから見せないでというのだ。私はニチャァと笑って画面の外に出た。

 7時を過ぎたところで宿舎に戻った。夜、大都会北京の薄明るい西の空で、それは見事な三日月が浮いていた。バスの窓から、ビルの屋上を散歩する月を見ていた。伊達政宗の前立てみたいだった。

北京留学9.1

9月1日

 

 日曜日。何もしないで過ごした一日だった。外に出ることすらしなかった。ぼんやりと流れていくTLを見て、ぼんやりと外を眺めて、かといってとりたてて孤独だと思うこともなく、寂しさがあるわけでも、哀しみがあるわけでもなく、強いて言うのならばうすぼんやりとした「やることやらなきゃ……」という思いだけがあった。人と話すことさえ億劫だ。疲れているんだと思う。食べ物を調達するのも面倒で、中国人たちが持たせてくれたバナナと、桃と、梨を食べた。梨はいつも私にひとつの記憶を思い起こさせる。

 中国のこの季節の梨は、形状が洋ナシに近く、味は和梨に近い。1年前、私が北京から日本に帰る日も、同じく日本語チョドダケシャベル中国人がくれた梨を食べていた。食べきれなくて、一つバッグに入れた。空港で食べようと思ったのだ。結局、私はバッグの中の梨を完全に忘れ去った。思い出したのは、日本の自宅に着いて、バッグの中身を取り出した時だった。本来、生鮮食品を海外から持ち込むことは禁じられている。空港ではチェックが入るのだ。ところが、どういうわけか私の手持ちバッグのなかの梨はそれをすり抜けてしまった。空港職員が気づかなかったのか、それとも「まあコイツこれ食べるつもりだろ、ええわ」ということだったのか、または実は梨一個ぐらいなら問題なかったのか、それは分からないが、そもかくそういう思い出。特段感情的になるほどの記憶でもないが、私は梨を食べながらそれを思い出していた。

北京留学n日目

8月31日

 

 銀行に行くため涼しい朝にバスに乗る。宿舎からバス停まで、南北に抜ける大きな道にかかる巨大な歩道橋を渡るのだけど、何の気なしにふと北を見て、何となく茫然とした。そうだ、ここは筑波じゃないから筑波山は見えないし、川越じゃないから関東平野を守る山脈だって見えるわけがない。知っていたつもりだったのに、どうしても北には双峰が見えるという、身体に染み付いたその視覚が私を殺した。私が見たのは、北京の北西にある山脈。名前はまだ知らない。

 ところで、中国の建物は基本的に入口に暖簾がかかっている。透明な、重たいプラスチックの大きな短冊を並べたようなやつ。自分の説明能力の低さにほとほと嫌気がさすが、そのうち写真でも撮っておこうと思う。この前、暖簾をかき分けるのに失敗して正面から暖簾に激突した。隣にいた中国人が一瞬唖然として、それから爆笑した。なかなかに痛かった。それなりのスピードで暖簾に突進していたので。

 北京の朝は涼しい。湿気がないからだと思う。バス停のベンチで大声の中国人と電話しながら、日本語チョトダケデキル中国人を待った。合流して、朝ご飯を食べる。こっちの朝食事情が私は好きだが、それについてはまた今度。銀行で手続きをしたのは、QRコード決済のできるアプリだ。支付宝の文字は日本のお店でも見ることがあるだろう。とかく便利なものだ。これで私はこの大陸でほぼ無敵と言っても差し支えない。というのはちょっとだけ過言だけど。

 目覚まし時計とか、ピンチハンガーとかを買った。対面の小売りブースでは、やっぱり値切りは常識らしい。さすがにスーパーとかだとそんなこともないけど。地下鉄の駅で中国版パスモにチャージして、中国人と別れてさらに一人でスーパーに向かった。大声の中国人と電話しながら、必要なものを買いそろえていく。「すみません、食器洗剤どこですか?」私が聞くと、愛想のいい店員さんが言った。「後ろのほう!」後ろのほうに行った。後ろのどこだかは分からなかった。「後ろってどの程度後ろなんだ?」ぶつぶつ言いながら探すと、かなり後ろのほうにあった。老舗メーカーの黄色い食器洗剤を買った。「ウェットティッシュどこですか?」別の店員に聞くと、彼女は忙しかったのか雑に手を振った。「あっち」。ティッシュコーナーだ。「あっちのどこ?」すでにトイレットペーパーを購入していたので、あっちなのは分かっている。さらに食い下がると、彼女はめんどくさそうに答えた。「前のほう」。前ってどっち!誰から見て前!しかしそれ以上の語彙がなかったので、私はすごすごと引き下がって、とりあえず店舗の入り口を前と仮定して探しに行った。あった。天才。

 買い物を済ませて、宿舎に戻る。買ったものをそのまま放置していた部屋を、どうにか片づけて、それからたしか久々にマイクラをやるなどして、寝た。どうにも体力が持たない。

北京留学六日目

8月29日 9時42分

 

 ほんとはこんなに長くここにいる予定じゃなかったのだ。何もかも携帯電話(のことをよく考えずに飛んだ私)が悪い。きわめて退屈な一日をどうしのいだかをまた書かなければならない。

 朝。7時半に起きた。この国じゃ7時半はもう昼みたいなもんである。耳のとても遠い中国人はとっくに朝食を食べ終えていた。油条と豆ジャンと茶蛋を食べて、それからパソコンを開いた。テキストデータというテキストデータを読み漁った。それこそ昔提出したレポートまで。なかなか面白かったのだが、その事実に絶望した。今の私、退化してない?へたくそな中国語と、退化した日本語。ついでにチョトダケデキル英語。はっきり言って虚無である。耳のチョト遠い中国人が買い物に行くというので、ついていった。耳のチョト遠い中国人は、すさまじく脚が悪い。調子が良ければ杖、悪ければ車いすなのだが、今日はテコテコ杖をついて歩くこととなった。ヨーヨージョーのバスで、2駅。テンフォンリーという百貨店だ。「これ買おうか」「いらない」「これ食べる?」「いらない」「何にも要らないじゃない!」「今おなかいっぱいだし」「後で食べるのよ」あとになったっておなかすかないし。中国語が届かなくてそれは言えなかった。テコテコ杖をつく老人について、ノシノシ売り場を回った。結局ウースェンとチエズ、それからシャンジャオを買って、ショウマントとウーニアルユエビン、それから最終的に中国人の圧しに負けて、ショウシャンチアルを買って帰った。バス亭でヨーヨージョウを待ちながら、中国人がレシートの小さな字を眺めている。「ねえちょっとそこの人、残額見てくれない?」バスを待っている見知らぬ中国人に話しかけはじめたので、私は話しかけられた中国人が振り向く前にレシートを横どりした。「あんた読めないでしょ」耳の遠い中国人よ、バカにするでない。日本人は実はみんなもともと中国語チョトヨメルのだ。なぜなら漢字だから!「387元」私が教えると、耳のチョト遠い中国人は瞬きした。「387元?シン」オッケーサンキューの意である。バスに乗って、帰った。一時間以上かかった。

 昼食は買ってきたものの炒め物だった。それと木耳の和え物、卵。耳のとても遠い中国人と会話が成立した。奇跡だ。「お父さんの大学どこだっけ」私は言えないので大学名を書いて見せた。耳のとても遠い中国人は、私の書いた文字をいたく気に入った。「小さいころから本を読んでいる子供は字がキレイなんだよ」耳のチョト遠い中国人は、耳のとても遠い中国人の言ったその言葉を聞き取れずに、口をあけて瞬きをくりかえした。私は恥ずかしくなった。私の文字は、言う人をしておまえのもじはくさびがたもじでがんばってあらびあもじをかいたかんじだねとのオコトバを貰うようなものである。「明治維新」耳のチョト遠い中国人との交信を諦めた、耳のとても遠い中国人がこちらに向き直った。「日本の大きな改革。同じ名前だね。ああ、そうだ、史記を見せよう」突然話が中国の歴史になった。なぜかそれは聞き取った耳のチョト遠いさんが言った。「彼は歴史と本が大好き」とても遠いさんのとってきた史記は、四冊セット。箱に入っていて、箱のフタにはとても遠いさんの文字で買った年月日と値段が記されている。「それに彼はなんでも記録しておくから」チョト遠いさんが笑った。とても遠いさんはそれを見せてくれて、それから仕舞って、席について、言った。「大学の教科書が手に入ったら、持って来て見せてね」「そんな、重いよ」チョト遠いさんが、文句を言った。とても遠いさんには聞こえていなかった。私は言った。「没問題」「ほんと?」チョト遠いさんはひきさがった。

 午後は更に退屈だった。写真の整理と、テキストデータの整理、それから北京大学の冊子を確認した。昼食から7時間たって、早口の中国人がやってきた。私はそのとき、久々に「空腹」という感情を思い出して感動のあまりむせび泣いていた。「充電!」早口の中国人がこちらに突進してきて、私の後ろにあるコンセントに携帯を突き刺した。「ご飯は?作ってるのね。昼ご飯何食べたの?糖三角食べたくなったから買ってきた!あと桃も」早口で言った。チョト遠いさんと今日あったことを話して、それから夕食になった。きくらげと、茄子と、昨日の残りのいんげんと、糖三角と、香腸、卵。あたりまえだが、空腹時の食事というのは素晴らしいものである。感涙にむせびながら食べた。早口の中国人が、上海にできたアメリカ系のスーパーの開店の話をしていた。人間の業を感じた。

 大声の中国人とテレビ電話で会話した。私は早口の中国人の買ってきた桃を切って食べていた。「まだ食べるの」大声の中国人があきれた。私もあきれた。早口の中国人が食べてみてと勧めたので食べたのだ。ここでは私が物を食べるほどよろこばれる。動物園の動物になった気分だ。しばらく会話して、電話をきって、早口の中国人が帰って、シャワーを浴びて、荷物をまとめて、今。そんな一日。

 そういえば、今日は28℃とかそんなものだ。こっちは基本的に空気が極度乾燥なので、涼しく感じる。唇と鼻がガサガサに乾く以外は快適だ。それでは、また明日。

北京留学五日目

8月28日 21時5分

 

 単刀直入に言うと、退屈な一日だった。早口の中国人が9時には来る予定だったが、いろいろと予定が狂って、最終的には12時過ぎにやってきた。昼食をとって、ごろごろして、夕食をとって、ごろごろして、寝ようとしている。それだけの一日だった。

 暇を持て余して、しかしインターネットも存在しないこの場所で、できることと言えば羽田空港で買った件の本を読むことと、こうやってWordソフトと仲良くすることだけだ。空港で買った短篇集は、ちょっとずつ読もうと大事にしていたものだが、当然すべて読み切った。一冊の本のなかで、何人もの人間が死に、何人もの人間が恋愛し、何人もの人間が暮らしていた。たぶん、これから一年間、場合によって読みたい部分を読んでいくんだろう。

 なにも無かった一日であったことを書き留めることとする。何もなかった、完!というわけでもないのだ。いや、とりたてて何かがあったわけでもないんだけど。

 早口の中国人の、早口のおしゃべりを聞いていた。家を買う事について、外国語を勉強することについて、気の狂った中国人のことについて、大声の中国人のことについて。今日は風が気持ちいい。昼食の時に、耳のとても遠い中国人が言った。「秋風が吹き始めてるね」。表の通りで臭豆腐売りが通り過ぎた。さわやかな風がすさまじいにおいになった。耳のとても遠い中国人が、ゆっくり立ち上がって窓を閉めた。ピアノが弾きたいなと思った。

 そういえば、独り言が中国語になった。べつに全部というわけでもないが、時折中国語が混じる。ついでに、漢字の日本語読みをどうにも思い出せないことが増えた。台湾に留学していた友人も同じようなことを言っていたのを思い出す。結局思い出せていないのだけど、「包」の「つつむ」じゃないほう、音読みだっけ、の読み方。バオじゃなくてなんだっけ。あっ、今、今ナウ現在まさに思い出した。ポウだ。あれ?なんか他にもなかったっけ。ホウ?ボウ?もうだめだ。日本語が下手になるのも時間の問題だろう。

 べつに深刻に寂しいわけでもないけど、なんとなく夜空を見上げて、狭すぎる都会の空に輝くひとつ星を見た。「空はつながっています!」とかいうトビタテ研修でのアッツいおことばを思い出した。なるほど、昔の詩人の気持ちがわかる気がした。どこかできみがたまたまこの星を同時に見ていたらいいなとか、ちょっとでも思ったりしたので。

北京留学四日目

8月27日 9時5分

 

 四日目。早口の中国人が小包子を大量に買ってきた。私はこれが大好きだが、いくらなんでも多すぎる。胃の中には昨日の夕飯すら消化されずに残っている。耳のチョト遠い中国人と、耳のとてつもなく遠い中国人が期待に満ちた表情で私を見てくるので、笑顔で口の中に大量に食品を投入して叫んだ。「おいしい!これ好き!」老人たちが満足して自分の皿に目を落とした瞬間、虚無顔になる。老人たちが顔をあげた瞬間、笑顔で咀嚼を開始する。

 早口の中国人と予定をすり合わせて、まず近くの百貨店に向かった。9時開店なのに8時半に到着し、しかたないので小売店を冷やかした。量り売りの個別包装菓子を売っている店で、ひとつだけお菓子を買おうとした。味を知りたかったのである。「これだけでいい」私が言うと、早口の中国人と販売員が目を見合わせた。「軽すぎて計れないから他のも買いな」早口の中国人が言ったが、私は首を横に振った。販売員が言った。「もういいよ、それあげる」大変申し訳ないことをした。ありがたく頂戴した。美味しかった。また来てちゃんと買おうと思う。

地下に降りて、お茶のお店に入った。「高くなくて、品質もそこそこいいやつ」早口の中国人が言うと、販売員は積みあがったダンボールをかきわけて、奥から茶葉の入ったダンボールを取り出した。「老北京の茉莉花茶。香り確かめてちょうだい」。販売員の掬った茶葉に鼻を近づけた。いい香りだ。早口の中国人が大声の中国人と電話をはじめたので、所在なく立っていた私に販売員が椅子をすすめてくれた。「お母さん?」販売員が聞いた。「母の姉」「そう。あなたはどこの大学なの?」「北京大学の交換留学生」「実家は?」「日本」電話を終えた中国人と茶葉を買って、やっと開いた百貨店に突入した。早口の中国人の早口の値切りを横で眺めた。「六個も買うんだから安くしてよ!」ねばりつづける早口の中国人に、とうとう販売員が折れた。「ハオ。50にしてあげる」。いろいろと物を買って、エスカレーターの前の椅子で休んだ。早口の中国人は、買い物と値切りの大好きな大声の中国人の様子を面白おかしく話した。「日本でもそう。商店に入ると数時間……」中国語を探して黙った私の言葉を、早口の中国人がひきとった。「出てきちゃこない」。二人で爆笑した。

 大学に行った。共用の調理場を確認してから、スーパーを探しに出た。途中偶然日本語のよくできる女性に出会って、手助けしてもらった。携帯はやっぱり使い物にならなかった。スーパーは大学から徒歩15分。33℃の灼熱の太陽。「クソ遠い」。早口に対して同意した。スーパーの地下の美食街で羊肉泡面を食べた。死ぬほど量が多かった。日本人のド根性で平らげると、早口の中国人が「よう食うわ」というような顔で見ていた。中国人は自分の頼んだ辛いなにかを残した。美食街は大量の人間でごったがえしていた。「どいたどいたどいた!」働くお兄さんが大量の皿を持って走って行った。スーパーをうろうろして買い物をすませた。クソデカカートにちょっとだけの日用品。早口の中国人が言った。「車大きすぎ。乗り換え!」小さいカートが放置されていたので、商品をそちらにうつして買い物を終わらせた。私たちは顔を見合わせた。「バスで帰ろう」「そうしよう」。スーパーから少し歩いて、バス亭の前でアイスを買い、バスを待った。601号が、家の付近から大学に向かうバスなので、それを待った。同じバス停にとまる大量のバスを見送り続けて、ふと気づいた。「ここに停まるバス、全部目的地(次のバス停)停まるんじゃないの」早口の中国人が言って、私は停留所案内を見た。「ほんとだ」目の前で、特19号のバスが発車した。見送った。中国人と顔を見合わせて爆笑した。つまりこういうことだ。平砂学生宿舎前から追越学生宿舎前に行くのに、土浦行きのバスが何本も来たのに乗らずに見送っていたというわけ。「あんなにたくさんバス来たのに!この一本道、次のバス停に停まらないわけないじゃない、『結構です、601号バスにしか乗りたくありません』って?」言っている途中で601が来た。「601『来たよ~!』」。爆笑しながら乗った。次の駅は停車せずにスルーされた。目的地のバス停が小さくなっていくのを茫然と見送った。「なんで止まらないの?!」早口の中国人に、バスの添乗員が答えた「降りるならはやめに交通ICでピってやらなきゃダメだよ、降りる人がいるかどうかはそれで判断してるんだから」停車ボタンなど存在していない。クソデカ道路の反対側にわたるクソデカ歩道橋を登りながら、爆笑した。何してんだ。

 這う這うの体で宿舎に戻って、荷物を置いて帰った。座って休んでいると、暗がりから声をかけられた。「かえってきたの」耳のとてつもなく遠い中国人だ。本人は耳がとてつもなく遠いが、忍者のように静かに活動するのである。おまけに、老人たちが電気をつけない家のなかで、壁のような色の服を着ている。保護色だ。完全に光学迷彩である。暗がりから声をかけられた瞬間飛びあがった。笑顔で振り向いて、叫んだ。「そう!!!」「いいね」耳のとてつもなく遠い中国人は部屋に戻っていった。

 私の大好きな茎レタスの炒め物と、トマトと卵の炒め物を、早口の中国人が作ってくれた。めちゃくちゃ美味しかったが、なにぶん胃にはまだ昼食が、なんならまだ朝食すら残っている。「めっちゃ美味しいけどおなかすいてない」言いながら、それでもめちゃくちゃ美味しいのでそれなりに食べた。死にそう。

 食後、早口の中国人が大声の中国人と電話した。私が今日シャベッタ中国語についてまた報告している。インコは途中で何度か大声の中国人に中国語の質問をした。

 夜、早口の中国人と飲料水を買いに行った。ああ、そうだ。ケトルがどこにでもあるのは、水道水が飲めないからだ。こんな簡単なことに思い至らなかったのは、水ボケした日本人だからだろう。それでは、また明日。

北京留学三日目

8月26日 21時20分

 三日目。力士の食べ残しを片付けつつ、荷物をまとめる。日本語チョトダケシャベル中国人が迎えに来て、一緒に大学に行った。宿舎の受付、登録拒否、登録。

 部屋は我らが平砂宿舎の愛すべき独房よりはるかに広く、文明の利器エアコン様がおわしました。巨大窓にはカーテン。据え置きの電話、それと電気ケトル。中国ではたぶん部屋を建造したらまず最初に電気ケトルを置く決まりでもあるんだろう。どこにいっても、ある。共用の水回りも含めて、一年間仮住まいするには最高の施設だった。電気がつかないことを除けば。

 どうにも私の部屋だけ電気が通じていないらしかった。さんざんいろいろな人に助けを求め、二時間ばかりかかって電気を通してもらった。日本語チョドダケデキル中国人におんぶにだっこである。情けなかった。死ぬほど堅いマットレスの上で、無意味に高い天井をぼんやり眺めながら、虚無感に襲われていた。何しに来たんだ?

 耳のチョト遠い中国人の家までの乗り換えバス停付近で、遅い昼食をとった。18元で、腹のはち切れそうな量の豚丼を食べた。帰って、再び携帯をどうにかしようと出かけた。ひとつめのお店のにーちゃんが言った。「君の携帯は古すぎてどうしようもないよ。新しい携帯を買うしかない」。私のXperiaが泣いた。私も泣いた。二件目の携帯ショップで出会った日本人に相談すると、白目の印象的なおにいさんは黒目をころころ動かしながら結論を出した。「どうしようもないね。頑張って」。どうしようもないことが分かった。携帯電話ショップのWi-Fiインターン先に詫びメールを送り、先生に生存報告メールを送り、そのあと友人に一通だけメッセージを送った。「野垂れ死にそう」。これには友人も困惑だろう。それこそどうしようもない。

 耳のチョト遠い中国人の家で、夕飯を食べた。初めて力士メニューに追加メニューが登場した。焼餅とキュウリのなんかアレだ。適当に食べて、また日本語チョトダケデキル中国人と、今度はスーツケースを持ってヘイタクして宿舎に向かった。カードキーがご臨終していた。事務室に持ち込んで直してもらって、荷物を置いて出た。カードキーが作動するかびくびくしながら出た。入る時にカードキーがいるのはともかく、部屋でもフロアでもない正面玄関を出るときにカードキーが要るのはいったいどういうことだろうか。最悪の場合、部屋にカードキーを忘れて、フロアからは出られても建物から出られなくなる。鍵もない状態で、玄関とエレベーターホールだけしか行き場がなくなるわけだ。

 帰りもヘイタクした。心細いわけでも、家に帰りたいわけでもない。ただ自分が情けないというだけで、心のなかで泣いた。バスだと3元90分、ヘイタクだと36元30分の距離。

 最悪の場合、インターンはクビだ。とにかくどこかでWi-Fiを拾って、だれかに助けを求めなければ。明日は早口の中国人が付き添ってくれる。なんだかもう疲れてしまった。かといって、日本に帰りたいというわけでもない。不思議な心地だ。考えがまとまらなくなってきた。また明日。